今月の ― 2026年10月03日
若葉台は・・・
雨です。ずっと雨。で、多摩センターに着いたら京王のダイヤがボロボロ。原因は一部列車への混雑集中とのこと。いつも乗る快速は通常通り来たけど、接続の特急は運休。なのに上下線とも回送が発車。
回送出すなら営業列車に回してよと思いました。特急運休なので、快速は混雑していました。まあ仕方がない。朝雨が降るとこうなっちゃうんですね。
帰り、改札の案内表示は全線遅れの表示となっていて、次の列車が分からない。ホームに上がると次は各停 多摩センター行きになっている。ここで多摩センター行き?と思っていたら1番に列車到着。これがまた若葉台止まり。乗換えの人が多くホームに残りました。
それから20分、なんの案内もなく時が過ぎます。上りは特急が90km/h以上の速度で通過しましたが、通過列車の放送なし。次に快速も来ましたが、これも案内放送なし。これいいのかな?まあ上りホームには人少なかったですけど。なのに「当駅は終日禁煙となっております」という放送が。なんだかなー。
車庫の様子
2000はまだ営業に入っていないようですが、それでもたくさん車両がいます。2000の後ろにもいましたので。その割になかなか列車が来ない。
やっとやってきた多摩センター行きは2000でした。間隔が空いた分乗客も多かったので、座らずにかぶりついてみました。まあ近代的な運転席。思ったより運転席の着座位置が高くない。都営車はもっと高いです。さすがに写真は撮れませんでした。
そして永山に着く直前に「この列車は橋本行きになります」との放送が。ここでいきなり、と思いました。小田急もそうですが、京王も運転整理が得意な方ではなさそうです。
永山~多摩センター間は105km/h走行。左右にゆっくりと、でも決して小さくはない揺れを感じました。これは車両側なのか線路側なのか。
そろそろ医院が混みだす頃だと思ってましたが、この日はガラガラ。正常ダイヤならまた5000特急に乗れたのに、4回連続はなりませんでした。
自分の乗った-9-2 ― 2026年09月26日
前回の続きです。
この2600は電制が回生制動でしたが、これが40km/hで切れてしまい空制に切り替わるのですが、その時の繋がりがよくなくて、結構なショックがありました。回生切れてから空制が立ち上がるまでタイムラグがあるような感じです。ガックンというショックでした。検査受けた直後などは繋がりがスムーズだった時もありますが、すぐにダメになってました。
回生が40km/hまでしか効かないというのは、省エネとしてどの位効果があったのかな。まあ当時は省エネなんてあまり言われなかった時代です。ただ小田急としても回生負荷の問題で、この車両は新宿~向ヶ丘遊園間での運転を想定していたようです。 でも登場からしばらくして、快速準急 小田原行きとして走ってました。小田原方はまだ列車密度が低く、回生どうしていたのだろう。何しろ9000でさえブレーキ初速が高い時は発電制動となる仕様で、本格回生が使用されたのは8000からですので。
この車両も粘着には問題を抱えていたようで、途中から再粘着装置が設置されました。空転検知するとノッチ進段を止め空制をかけるという結構強引な感じでしたが、意外とショックは少なく、空転が止まると空制緩解でシュッという音を出します。特に雨の日はシュッシュッ連続で加速してました。
小田急では旧型車は自動連結器、新性能車は小型の密着自動連結器が使用されていましたが、2600の最終2編成、2671Fと2672Fは最初から密着連結器が装着されていました。この編成に乗っていて経堂で通過待ちをする際、運転士に連結器を指さし「これどうしたんですか?」と聞きました。その回答は「今過渡期なんだよね」でした。時間がなくそれ以上聞けませんでしたが、1969年のある日、全車一斉に密着連結器に交換されました。この2編成はその先駆けだったということです。その後、順次電気連結器が取り付けられ、小田急は大分割併合時代に突入して行きます。係員が線路に降りて空気管や電気ジャンパーを接続する必要がなくなったわけです。
この車両の大事件といえば、1991年の台風による黒川(当時、現はるひ野)~永山間の土砂崩れに突っ込んでしまい、脱線したことです。ここは京王との並走区間で、当時京王で通勤していましたので、この事故車を見ていました。かなりひどかったようで、早期復旧のため車両の救出を諦め、その場で2両が解体廃車となってしまいました。これがその後の8両化のきっかけになったのかも知れません。
この崩れた法面の改修工事、とにかく長い期間、徹底的にやってました。毎日見ていましたが、「まだやってる」と思ったものです。
その後、VVVF試験や8両化などありましたが、自分の趣味活動が長期停滞していた時機で、ほとんど乗っていません。今考えると残念だったと思います。
この車両以降、小田急の一般車は車体長20m、車体幅2.9mが標準となりました。特に車体幅については地下鉄乗入れ車の9000や1000までもギリギリまで幅を広げ、裾絞り車体を維持するほどのこだわりを見せていました。
なのに・・・3000があのザマです。本当にガッカリしました。小田急最大勢力の車両がこの車体でいいのか?複々線になっても快速急行への集中は続き、ひどい混雑であることに変わりはないのですから。
5000で拡幅車体が復活したのは喜ばしいことですが、3000は目算を外してしまったなと思います。
2600は起動時、大きな駆動音を出すのが特徴です。全車引退後、1000が純電気ブレーキ対応となった車両は磁励音が変化して2600と似たような音となり、遠くで聞くとハッとしたことがあります。
小田急の大型化に大いに貢献した2600ですが、特殊な制御方式で9000とともに扱いにくい存在だったのかも知れません。
そして百番台が形式となる最後の車両となりました。2400の車番溢れがきっかけだと思いますが、これ以降一般車は4桁、特急車は5桁になっていくことになります。
急激な輸送量の増加に対応するため製造された車両ですが、やはり環境変化に翻弄されたところもありました。でも最後は復刻塗装でお別れ運転もありましたし、1両のみですが、保存もされています。
小田急にとって特別な車両であることに変わりはないようです。
自分の乗った-9-1 ― 2026年09月19日
今回は2600です。残り少なくなってきました。
この車両は2200に次ぎ、小田急にとってエポックメーキングな車両となりました。20m車は1800が走っていたとはいえ、車体幅2900mmの裾絞り車体。一般車として本格的に空気バネ台車を採用し、回生制動も採用されました。
しかし、当初からいろいろあった車両でもあります。まず6両編成で計画されたけど、当時のホーム長の関係で5両で登場。3M2Tで、ホーム延長完了後、もう一両T車を組み込み、3M3Tとなりました。この3両のM車の制御が変わっていて、6台車の内、3台車を1つの制御器で制御する方法。M2車は2つの台車がそれぞれ別の制御装置により制御されるという変な構成となっていました。
そして後から組込むT車は当初新宿側Tc1車とM1車の間に入れる予定だったようです。で3両のM車のパンタは全部新宿側に設置されていました。しかしラッシュ時混み合う(重くなる)新宿側に2両のT車を入れるのは良くないと判断されたようで、小田原側Tc2車とM3車の間に入れられました。従って編成で見ると、パンタの位置が新宿側に偏ってしまいました。そのためか、以後の車両は9000を除きパンタを小田原側に設置するようになりました。特に増結の予定がない車両も。
前面はいわゆる小田急顔ですが、車体幅が広くなった分ふっくりした感じとなりました。しかし車内はその印象とはまるで違い、座席は今までの低く深い快適なものから、高く浅いおせじにも座り心地がいいとはいえないものになってしまいました。まあ詰め込み車両になったということです。車体幅は広く、座席は小さいので、床はそれは広々感じました。2400までのとの差が非常に大きかったので。輸送力を増やすには仕方がなかったのかな。
各停 新宿行き 車番不明
2400の写真と同じ所です。シャッター速度が遅くブレて車番が読めません。でもなんとなく車体が艶っぽくて新車のように見えます。
車番不明
これも車番が読めません。行先は小田原となっているようですが、各停にある上部の三角がなく、種別看板もないです。まだ種別窓の使用はされていない時代ですので、種別も不明です。通過表示灯が点灯しているようにも見えますが。場所も忘れていて、鶴川のあたりではないかと思われます。
2670F
2003年、お別れ運転後の海老名です。応募して抽選に当選して乗車しました。復刻塗装ですが、上の写真と見比べるとわかりますが、下側のダーグブルーのラインが少し上になっているので印象がちょっと異なっています。ロイヤルブルーのラインと合わせたのでこうなったのでしょうね。
この車両にはいろいろ思い入れもあって、長くなるので2回に分けたいと思います。




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